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歩けない。 [RSD]

うーん。。。

足が痛いです。

もともと病気のせいで左足首と指が不自由なのですが、
最近関節が急激に拘縮してきたようで、さらに足首が曲がらなくなりました。
そして、前以上に動かせなくなってきました。
このまま単なる足の形をした塊になっていくのだろうか・・・

なんといいますか、関節を動く向きとは反対に限界まで曲げられたときのような、
めっちゃ痛い感覚がずーっとつづいています。
引力に従って足が下を向こうとするのだけで辛い。

それに加えて痛みの感覚が研ぎ澄まされてきていて、
扇風機の風も不快。
ひりひりひりひりひりひりひり・・・
ずきずきずきずきずきずきずき・・・
なんと表現すればよいものか。
とりあえず、眠れないです。。。
今日は自重していた睡眠薬を使おうかなと思います。

痛みって、拡がるんですよ。
拡がるというのは私の場合、足首が悪いはずなのに、
強い痛みが出ると足首では収まりがつかず、膝、さらには股関節までズッキズキ。
股関節から足を切り落としたくなります。

なんかねぇ、こうした痛みに加えていろいろストレスが溜まりますと、
めっちゃ鬱状態に陥ってしまって・・・
私は自分の生まれ持った精神力に恵まれているようで、
病気に関してはあまり病むこともなく今までずっと乗り越えてきているのですが、
最近いろいろと長期的な大きなトラブルを抱えているので、
ちょっとバランスを崩しかけているような。
病気に関して以外はガラスのハートなんですよ(笑)

こまったなぁ。

このごろ明け方まで眠れず、
眠りに落ちた頃に起床時間を迎え、
起きても足が動かず、痛みで歩けない。。。
1限に出られない・・・
という事態。

どうしたらよいものか。。。

早く難病認定されて、研究してもらえないかなぁ・・・

将来が不安で不安でたまらない。








タグ:RSD CRPS 拘縮
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私の病気のこと。 [RSD]

このブログを始めてしばらく経ちますが、今日はかめのことではなく、私の病気のことを書きたいと思います。
とっっっっっっっっっっっても長いですが読んでいただくと幸いです。


まず。
小さい頃からの私の夢は、『可愛い靴を履くこと』でした。
それは今も変わることがありません。


幼稚園の年長さんの頃、当時は横浜に住んでいたので遠足で油壺に行きました。
海に向かう坂道ではしゃいだ私は、母の制止も聞かずに走り出し、転びました。
今思えば、その瞬間が私の病気との闘いの始まりでした。

転んだことと、先生たちに迷惑をかけたくないという思いで頑張って歩いていたことは覚えているのですが、それから先は覚えていません。
母によると足首にピンポン球がくっついているくらいに腫れていたそうです。

病院でレントゲンを撮り、私は左足首の<捻挫>という診断をされました。
処置はテーピングと湿布、それと超音波機器による治療でした。何度か超音波機器の操作をしたことを覚えています。

小学二年生になり、父の転勤により私は愛知県に転校しました。
私の足がおかしいと気付き始めたのはこの頃です。
しょちゅう捻挫をするし、運動をすると痛くなり腫れがでてくるようになったので、母は私を病院に連れて行きました。
病院の先生と話した結果、
・幼稚園の頃に転んだときに骨折、さらに靭帯も切れていて、折れた骨が関節で悪さをしているので腫れが出る
・靭帯が切れていることで歩くだけでしょっちゅう捻挫を起こす
ということでした。
さらに、成長期でもあるので治療は湿布と、捻挫を防ぐサポーターの着用しかないと言われました。
それから高校卒業までの約十年、私はサポーターの着用により周りの友達が履いている様な靴はなかなか履けない生活を送ってきました。高校のときは規定の革靴が履けなかったのでみんなの前で先生に怒られたり。見れば解るだろ!って感じですけど。

サポーターも中学に入った頃にはだんだん役に立たなくなってきました。
体育で走ると涙が出るほど痛い・・・。
こうみえても私は運動することが大好きなので、できることは積極的に参加していましたが、中学三年くらいになってからは体育にも参加できない状態になりました。
勿論、体育祭にも。
体育祭を見学するだけではなくて、その競技(例えばダンスとか)の準備にもみんなと同じように参加できない孤独感。
見た目ではなかなか解らないので、クラスメイトや先生に理解してもらえず、辛い思いをすることがよくありました。
でも誰にもそんな辛さを言えませんでした。
なんだろう、みんなと同じように生活したいから友達にも普通に接してもらいたいのだけど、足が絡むときはちょっと気を配ってくれたら良いのに・・・なんてジレンマ。わがままですが・・・難しい。

高校時代は福岡に転校して、足首に注射をしてもらいながら通学していました。
次第に見えてくる大学生活。そしてその先の将来。
私は冒頭にも書いていますが『可愛い靴が履きたい』という思いが強くなってきました。せめてサポーターが取れるようになれば・・・
革靴も履けない私が、近い将来迎えるであろう就職活動をどうやってすればいいのだろう。
そのような思いを当時の先生に伝えると、先生がかつて勤めていた大学病院の先生を紹介してくれました。
それが運命の分かれ道だったのかも知れません。



紹介された先生はとてもフランクな方で、今まで出会ったことがないタイプの先生でした。
整形外科の中では割と有名で、よく分からないけど○○○日本代表などのチームドクターを務めており海外にもよく遠征に行っているようです。
なかなか手術を勧めることは無いという私の足の症例の手術を以前したことがあると彼は言いました。
そして大学受験が終わったら手術をしよう、と。
母も私も先生に治してもらおうと思いました。


大学受験が終わり、私は手術に望みました。
足の中にある骨片を摘出し、ぐちゃぐちゃになっている靭帯を何とか集めて金具で骨に留める
という手術です。
先生いわく、
“一週間で退院できるから入学式は間に合わないかもしれないけど遅れはしないはずだから”
ということでした。
私は術前に手術中のビデオを撮っておいてほしいと先生に頼みました。
先生は快く承知してくれました。

手術にあたり、私は下半身麻酔をするという説明を受けました。
手術室で麻酔科医が私の腰に針を刺しました。
今思ってもそのときの痛みはおかしかった。それが今の私に繋がってるとは言い切れませんが。
手術前は創部を清潔にしなければいけません。
先生たちは私の左足をたわしでごしごし洗い始めました。
でも、

なんかおかしい・・・

麻酔が右足しか効いていない・・・!!

このままメスを入れられたらどうしよう・・・
悩んだ私は先生に
先生、麻酔が効いていません。
と言いました。

動きが止まった先生たち。
何回かのやり取りがあったあと、私はマスクを当てられ、意識を失いました。


目が覚めると、手術は終わったようで私は手術室からまさに搬送されようとしているところでした。
病室につくと看護師さんたちは酸素マスクを私に着けようとしましたが、執刀医の先生が着けなくてよいと言ったので着けませんでした。
なんとなく憧れていたのでがっかりしました。

次の日からリハビリが始まりました。
思った以上に痛くて足が動かせません。
何日かは
まぁ、足切っていじってるんだししょうがないか
と思っていましたが、連日のとてつもない足の痛み。眠れないほどです。
しかも執刀医の先生は私を診に来てくれません。
その代わりなのか手術室に一緒にいた先生が来てくれましたが、睡眠薬を出してくれる程度。
夜間のナースコールにも、当直の研修医がきて薬を出すだけ。担当医からは何も言われません。
他の先生なんて、大学病院だからしょうがないかもしれないけど何人も学生?研修医?を連れてきて、
こうやるんだよ~
なんて、連日私の足をこねくり回していきます。
悲鳴をあげるほど痛いのに、私の周りを先生たちが取り囲んでいる状態で私は怖くて何も言えません。
こんなこと、許されますか?
毎日毎日私はありえないほどの痛みと闘っていました。
痛みを絶えるために私は毎日笑って、できるだけ元気に過ごそうとしていました。
それが悪かったのかな・・・
看護師さんに言っても、毎日毎日痛みを訴えているので(しかも見た目は元気なのに)真剣に話を聞いてくれません。
教授回診もただ教授が先生たちを引き連れて病棟を歩くだけです。
私は不安で不安でたまりませんでした。
たまにくる執刀医の先生も、
まだ二週間だから・・・
まだ三週間だから・・・
・・・・・・・
と一週間の入院の予定だったのにあやふやな対応。
もうとっくに入学式は終わっていました。


先生たちは、私の症状とは裏腹に、私を退院させたがっているようでした。
高いサポーターを私に購入させて、痛みと凄い腫れでパンパンの私の足に毎日先生たちの手で無理矢理装着しました。
地獄でした。
そして、GW直前、執刀医の先生はこう言いました。



『美咲ちゃんの足の痛みは、大学に行けてないことからの精神的なものが要因だから大学に行けば治る』



と。
そして、高知での通院先は僕の後輩がいるからそいつに全てを任せるからね。
あと、手術の責任の所在がわからなくなるから整形外科以外に行ったらいけないよ
と。

私はGWに、足も腫れ39℃近い熱を出していながらも当直医に座薬を出してもらい、退院させられました。
勿論、誰の見送りもありませんでした。
約束していた手術中のビデオも、何度も頼みましたがあやふやなまま・・・。

大学に行くのがかなり遅れているのもあって、私は直ぐに高知に行きました。
高熱を出して寝込みながらの一人暮らしの始まりです。

休み明けから私は大学に通い始めました。
松葉杖の上に家が大学から離れていたので毎日タクシー通学です。
雨の日にはカッパを着て登校していましたが、松葉杖が滑り、何度も何度も転倒してびちょびちょになりながら教室に向かいました。
アパートの階段から落ちることもありました。

そんな生活も一週間ほどしかもちませんでした。
あまりの痛みに私は予約日より早く、救急で病院に行きました。遠いのでタクシーで行くと毎回一万円くらいかかります。
紹介されていた先生もいなかったので違う先生に診てもらいました。
先生は
整形外科ではもうどうしようもない
と言いました。
私はそれでも執刀医の先生を信じていました。だから、他の科には行ってはいけないと言われたんです、と言いました。
するとその先生は訳が解らない!と怒りました。
でも私もどうすればよいか分かりません。その日はそれだけで何の治療もなく終わりました。
数日後に紹介された先生に診てもらいましたが、私の連絡は電話だけあったらしいのですがカルテやレントゲン写真などは全く届いておらず、
どうしようもない
といわれるだけでした。
私はどうすればよいのでしょうか。もう訳がわかりません。どうしようもない身の置き場とどうしようもない痛み。
母にそのことを言うと、担当だった先生に話をしにいってくれて、電話をすることになりました。
執刀医の先生は
もうちょっと頑張れ
というだけでした。

このときの私の気持ち、わかりますか??
執刀医の先生しか頼れなかったのに・・・

足の腫れは酷くなる一方で、私は不安に耐え切れず、母に足の写メを送りました。
そのときの写真です。
画像 007.jpg
画像 008.jpg

ちなみに退院させられたときの足はこんな感じです。
画像 006.jpg


私はもう、自分の痛みをどうにかしたいという思いで、紹介先の病院で『ペインクリニック』を紹介してもらい、診てもらいました。
そこでやっと私が

RSD/CRPS:反射性交感神経性ジストロフィー

の患者だと解ったのです。
そして入院治療をすることになりました。

ペインクリニックという言葉を私はこのとき初めて知りました。
その名の通り、痛みを治療する科です。
もう少し、この科を早く知っていれば・・・
そして他の科に行くな、なんて言われていなければ・・・


RSDは簡単に言うと、『痛み』の病気です。
とにかく痛いのです。痛みの種類も本当に沢山あって、火傷の様な痛み、灼熱感、ひりひり、ぴりぴり、びりびり、刃物で身を削がれている様な感じ・・・など表現の仕方がわからないような患者にしか解らない多種多様な痛みに四六時中苛まれる病気です。患部は何かが触るだけで痛みが襲うので、患部によっては服を着ることもできません。患部を動かすことも辛いのです。私は普通の靴下も履けません。左足首の関節は硬縮して動かないし、指も麻痺しています。さらに、血流障害なども起こり、それによる冷えでまた痛みに悩まされるのです。画期的な治療方法は今でもわかっていません。そして難病認定も下りていません。

この病気は誰にでもなりうる病気です。
怪我をしても、注射の針を刺すことでもなりうるのです。
そして発症してからどれだけ早く治療ができるかでその治癒を左右します。
だから、こういう病気があるということだけでも覚えておいてください。
怪我も、注射の針を刺すことだって、避けることはできないことです。
知っておくだけでいいのです。
私は知らなかった・・・。知っておけばこんなことにはならなかったのかもしれない。
術前に説明することを怠った執刀医に憤りを覚えます。



私の、発症とみられる出来事は足首の手術以外にありません。
ペインクリニックで診てもらったときには、もう発症から約二ヶ月が経っていました。


一人きりで入院した私は手術室で(簡単に言うと)腰から腰の脊髄の周りにある硬膜というところのちょっと手前にカテーテルを刺し、そこから24時間ずっと麻酔薬を注入して痛みを止めるという治療をしました。持続硬膜外ブロックといいます。
端的に言うと、下半身に麻酔がかかりっぱなしの状態です。
私の長期の車椅子生活が始まりました。
私は入院しながら一人で19歳の誕生日を迎えました。大学にも行けずに。。。
でも先生と先輩と友達がみんなからの色紙を持ってきてくれて、忘れられない誕生日になりました。

しかし、ある日、私ベットに寝ていた私は自分が動けないことに気づきました。全身が痛いのです。腰を中心に。
看護師さんを呼ぼうにも動けないのでナースコールも押せません。
息をすることも痛くてできないので私は呼吸困難になりました。
どうやったのか覚えていませんが、私は搬送されました。
チアノーゼで全身は紫になっており、血圧は20でした。
死ぬかと思ったけど、助かりました。

原因は腰からの感染です。
そりゃぁ、四六時中腰に穴があいてるようなものですから。
でも、先生は細心の注意を払っており、こんなことはめったに起こるようなことではありませんので治療を受けている方は安心してください。
私はこれ以上この治療を続けることができなくなったので、先生と相談した結果、福岡大学病院に転院することになりました。
福大はこの治療の権威です。

それから去年の二月まで、私は福大で沢山の治療を試しました。
手術室も何度も入ったし、最新の薬も限界量まで飲みました。
でも、回復はしませんでした。
脇腹から透視しながら長い針を五本くらい脊椎の神経まで刺して、熱を通して神経を焼き、血流を良くするという、腰部神経節ブロックをしてから、私は退院することになりました。

退院してからが本当に辛かった。
車椅子だし、薬も沢山で副作用が辛い。
夜は眠れず、昼間はぐったり。
家族も、私もストレスが溜まって悪循環です。
私はおかげで20キロも太り、更にストレスが。もう別人です。
大学にもいつ戻れるのか解りません。
もう、消えてしまいたかった。

両親には、大学を退学しなさいと言われました。
もっと良くなってからもういちど受験しなさい、と。

でも私は嫌でした。
もう一度高知に戻って、先生や友達に会いたかった。
高知で暮らしたかった。

必死に努力して、何とか歩けるようにして、プールにも通って自己流のリハビリを続けました。
痛みは以前と変わりませんが、耐えることができるようにしました。
それでも普通の人に体験させたら、多分泣くと思うような痛みです。
そして、この春、念願かなって復学をすることができたのです。
でも体調は芳しくなく、点滴を定期的にしながら生きています。


私の場合、原因は手術した病院の医療ミスです。
執刀医の先生はもう転勤していましたが、呼び集めてもらい、病院側と私と母とで話し合いをしました。
執刀医の先生はなんて言ったと思いますか?
『ごめんね』
ですよ?!
もう、怒りが頂点に達しました。
執刀医の先生は、私がRSDということを疑いながらも信じたくなかった、と言いました。
こんなことありえますか?
『もう手術はできないかもしれない』
とか言うし。
そして、できる限りの保障はするので弁護士を通して話をしましょうということで終わりました。
リハビリはうちの病院でしてください、とも。
近い病院がそこしかなかったのでリハビリにも通っていましたが、お金は取られるし、診察を受けてもお金を取られる。
さらにしばらく経って、リハビリが打ち切りときました。
いったい何なのかわかりません。
さらに、弁護士さんを通して話を進めようとすると、この件の病院側の担当者が変更されており、

うちに非はありません

と言うのです。
そして関係する先生は病院から姿を消していました。
こんなことありえますか?

私から健康でいられる人生を奪って、
大学生活を送るはずの二年間を奪って、
家族に大きな負担をかけ、
私の将来の選択肢を狭め、
医療費、学費・・・沢山の金銭の負担をかけ、
身体的、精神的苦痛を強いて・・・

もう、うんざりです。
アパートも一年間住んでいないのに借りっぱなしだったし、買い揃えた家具家電も無駄になりました。
一度はミスを認めたのに、これらの保障もしてくれないのですか?
私の家庭は私が大学に通う費用を払うのが困難になり、私は今仕送り無しで家賃から医療費まで全てをまかなっています。
多分これからもずっとそうでしょう。
痛みに耐えながら学校に通い、生きています。
それだから余計に憤りを感じます。
私はどうすればいいのでしょうか。

私は私の友達みたいに、

可愛い靴を履いたり、
靴に合う服を着たり、
夏には浴衣を着たり、
思いっきり走り回りたい、

それだけなのに・・・

それだけなのに、多分、ずっと叶うことはないでしょう。


この問題とは断固として闘っていくつもりですが、
それでもこの病気になってかけがえの無いものにも出会いました。
病院で培ったいろいろな患者さんとの繋がり。
この病気の体験そのもの。
笑うことの大切さ。
命の尊さ。
儚さ。
強さ。
優しさ。
そして悲しみ。

毎日が痛いからこそ、辛いからこそ、苦しいからこそ、私は笑おうと思います。
このことを難しいと思う人にもたくさん出会いました。
私もそういう思いをしょっちゅう持ちますが、笑うことのもたらす光を知って、この病気との付き合いが楽になりました。
笑いは自分からも生まれるし、他人から貰うことができます。
私があなたから貰うこともできるし、私があなたに届けることもできるのです。
誰もが苦しみを抱えて生きていると思いますが、笑うことを忘れないでください。
自分でどうしようもなければ、周りから貰うこともできるのです。
私の毎日ははっきり言って一生続く拷問のようなものです。
でも、私は笑って生きていきます。
それが私だけでなく、誰かの光になればいいなぁと願いながら。


大長編になりましたが、ありがとうございました。
七時から書いていたのに、もう十二時半です・・・ww


タグ:RSD 医療ミス
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